ゆるっとふわっと中国史の流れを書いてみる② インシュウその1 殷~周(西周)

殷~周

こんにちは。

ゆるゆるふわふわの「ゆるっとふわっと」

中国の歴史の流れを書きます。

前回、新石器文化~夏まで(三皇五帝についても含む)を書きました。

今回は、いよいよインシュウシンカンの歴史に入ります。

 

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殷(商)【前16世紀頃~前11世紀頃】

夏王朝は500年ほど続いたそうですが、最後の王傑王は、史上有名な暴君で、世の中が大いに乱れました。どうもこの時代地球規模の天候不順が起こったそうで、1628年のテラ島の噴火が原因と言われています。テラ島は現代のギリシアのサントリーニ島のことで、島の外縁部以外の部分が大噴火で吹き飛び、今のサントリーニ島は、島の「中の部分」が海になっています。ギリシアの大噴火が遠く中国大陸にも影響を与えたのですね。

当時の気候変動と桀王の政治の悪さなどが理由で、世の中が乱れ民は苦しみ、殷の湯王「儂は天命を受けた」などのたまい、反乱を正当化し、伊尹という人物を参謀にして、夏討伐の軍を起こします。(このへんの動きは司馬遷の「史記」に掲載されていますが、伝説の域をでません)

湯王は「鳴条の戦」で夏を破り、この後夏は滅亡。殷の時代がはじまります。武力によって王朝を倒す「放伐」のはじめがこれだと言われています。

日本では「殷」王朝と呼ぶことが多いですが、「商」王朝とも呼ばれています。発掘された甲骨文字では「殷」の文字は見当たらないようです。

殷は30人の王が立ち500年ほど続きますが、けっこう本拠地を遷しています。洛陽盆地にある「偃師商城」や、今も鄭州の街の市街地に城壁が残る「鄭州商城」、安陽で発見された有名な「殷墟」などです。ちなみに殷墟は、殷の首都の中でも最後のあたりに首都になったようです。

鄭州商城の城壁

鄭州商城の城壁

殷は祭政一致の神権国家で王自体がシャーマンでもあったようです。そして、生贄が行われてたらしく、遺跡から生贄にされた人たちの骸骨が出てきます。

この殷王朝も、前11世紀紂王のときに滅びます。

殷の滅亡

殷の紂王は、「酒池肉林」を行ったとされるなど暴君として有名です。夏王朝最後の王、桀王とひとまとめにされ「桀紂(けっちゅう)」と呼ばれたりもします。

暴君なので当然世が乱れます。さらに後世悪女の代名詞にされる妲己(だっき)を寵愛して、それによっても世が乱れます。

そして、関中に勢力をもっていた周の武王に攻められ、「牧野の戦い」で殷軍は大敗、紂王は焼身自殺をし、殷王朝は滅亡します。殷が滅びた年は一応前1046年頃とされていますが、はっきりしないようです。

このとき周の武王の軍師として活躍したのが、有名な釣りニート・太公望です。この太公望の子孫が春秋戦国時代の斉の王です。(ただしその後、斉の王位は乗っ取られ、田氏が王になります。キングダムに出てくる斉王は田氏です。)

周王朝 西周(前1046年~前771年)、 東周(前770年~前256年)

周王朝は、武王が殷王朝を倒した1046年頃から、前256年に秦に滅ぼされるまで続きます。そう聞くと、かなり長い間続いたのだなと思いますが、実際に全国に影響力があったのは、西周(前1046年~前771年)の時代まででした。

周の武王は、殷王朝を滅ぼしたあと、今の西安(昔の長安)の近郊の鎬京に都をおき、一族や建国の功臣たちに領土を与えて諸侯として各地に封ずるという「封建」という制度で全国を治めます。

周公旦の摂政

周の武王はさっさと死んでしまい、跡を継いだ成王が幼かったこともあり、武王の弟の周公旦という人物が国政を補佐します。周公旦は洛邑(今の洛陽のあたり)の建設や東方経略、周の様々な制度の作成、「道徳」によって世を治めるなど、優れたまつりごとを行います。(道徳によって世を治めるなどほんとにできるのかと思ってしまいますがw)

そして成王が成人したら、政権を返上し一家臣に戻ります。普通は周公旦のような状況だとさくっと自分が王位についてしまうと思いますが周公旦は違います。そのような行いや前述の善政により、後世の儒家どもから「この人素晴らしい!」と大絶賛され「理想の聖人」とされます。

周の衰えとバカ殿・幽王

周の勢力も第五代の穆王の頃には、衰えがはじまり、貴族が力を持ってきます。

十代目の厲王のときに「復権」を目論みますが、失敗!
前841年、諸侯や貴族によって追放されてしまいます。

そして、厲王の孫にあたる幽王の時代になります。

幽王は中国史上でも上位をはるバカ殿です。

政治はそっちのけで、褒姒という妃を喜ばせることを集中します。

褒姒は笑わない女として有名で、幽王は褒姒を笑わせるためあらゆる手を尽くします。(政治そっちのけで)

ある日幽王は緊急事態の烽火を上げさせました。それをみた諸侯たちがあわてて駆けつけたのを見て褒姒は笑い、それに味をしめた幽王はたびたび烽火を上げさせ用もないのに諸侯を駆けつけさせたりしたので、そのうち誰も烽火を信じなくなりました。

そのうち犬戎という蛮族がほんとに攻めて来ましたが、烽火が上がっても誰も助けに来ず、幽王は殺されてしまいます。まさにアホの極みです。

ともあれ、これで西周は滅亡ということになります。

東周のはじまり

このあと、周は携王平王がそれぞれ東西で立ちますが、東の洛邑を本拠とする平王が勝利します。

そして、平王は前770年に東の洛邑を周の首都とします。

これ以降の周を東周と呼びます。

そして、東周の時代は、さらに2つに区分され、

前770年~前403年を春秋時代、

前403年~前221年を戦国時代と呼びます。(東周自体は前256年に滅亡)

「春秋戦国時代」がここからはじまります。

 

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【参考文献】
佐川英治,杉山清彦 編著『中国と東部ユーラシアの歴史 (放送大学教材)』(放送大学教育振興会/NHK出版発売2020年03月)
岡田 英弘『中国文明の歴史 』(講談社現代新書2004年12月)



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